2時間ハーレーダビッドソンを見つめ続けた少年の夢は今も健在
井口俊則さん(港南区在住)
地元のタクシーで「ハーレーダビッドソンのある家」と言えば目印になるほど、ハーレーが停まる風景が当たり前となった井口さんの自宅は、日限山の閑静な住宅地にある。
井口さんは、昭和13年1月31日生れの73歳。中学を卒業し、16歳で長野から横浜に出て、西区藤棚の食料品店で12年間働いた後に独立。現在の地で、横浜市内では2店舗目となるヤマザキデイリーストアを出店した。
奥様も同じ長野の出身。井口さんの実兄が勤める看板屋の娘さんだった。井口さんの独立資金をためるため、横浜の食料品店で一緒に働き、独立開店前から二人三脚で生きてきた。言わば盟友。昭和48年に開店、すぐにオイルショックが到来したが、人の3倍は働いたと言う実直な性格と、住宅地として発展途上の地域だったため、商売にとっていい時代だったという。
近くに大手スーパーが出店したときは、客足が一時遠のいたが、それも無事に乗り切り、ヤマザキデイリーとの契約が切れる昭和62年にタバコの販売ブースのみを残して、惜しまれつつ閉店。
ハーレーダビッドソンは元気の源
現在も港南区の商店街連合会事務局長、日限山商友会会長として忙しい毎日を過ごし、保護司としても16年の経験を持つ。このバイタリティーはどこから、と伺うと「私の元気の源はすべて、ハーレーダビッドソンですよ」と目を輝かせて、ハーレーとの長い付き合いを話してくれた。
横浜に出てきて、半月ほど経った時、訪れた中華街の自動車屋に停まっていたハーレーに釘付けになり、2時間ほどもその姿に見とれたのはまだ井口さんが16歳の時。当時神奈川県警に数台のハーレーが導入され、憧れていたこともあって、この出会いは少年の心を十分に掴むほど衝撃的なものだった。「頑張って働いて、いつかこのハーレーに乗るんだ!」と心に決めた記念すべき日でもあった。その夢がかなったのは39歳。初めての出会いから実に23年間。
排気量1200ccのソロの中古だったが、その日のことは忘れられないと言う。
以来、ハーレーと過ごす毎日が続き、現在5代目。1989年(平成元年)9月27日に横浜ベイブリッジが開通した際は、当時の愛車のサイドカーに、ミス横浜を乗せてパレードしたことも、いい思い出。昨年は脳血栓で一時入院を余儀なくされたが、再びハーレーに乗りたい一心でリハビリに励み、見事に復活。「ハーレーがある限り、私は元気でいられるんです」と笑う。
仲間と先の楽しみを持つことが大事
ハーレーダビッドソンオーナーで構成されるグループ﹁横浜シーサイドクラブ﹂のメンバーとのツーリングも、楽しみの一つ。このグループは、ハーレーダビッドソンの販売店「マルトミオート」を拠点とし、今年で35周年を迎える。平均年齢65歳、メンバーは43人。井口さんは発足したころからのメンバーだ。この仲間たちと、「来月はどこへツーリングに行こう? 来年の予定は?」と、先の楽しみを話すことも、元気を保つ秘訣だと言う。ツーリングに行った先々で、面白い地図を集め、次回の計画を考えるのが楽しくてたまらない。
「みんなのまとめ役的な78歳のメンバーがいますが、私も同じ歳になるまでは、頑張ってハーレーに乗っていたいと思います。このクラブのツーリングでは、周りの人に不快感を与えない走りを心がけています。バイクに乗るすべての人のお手本となるように、たくさんの人がハーレーに乗ってみたいと思ってくれたら嬉しいですね」と、まだまだ夢が尽きる様子はない。
