2011年12月18日は港南台周辺から瀬上池を参加者18名で散策しました。
レポート
晴れ渡った空の下、定刻に港南台駅に集合し、駅前の道路沿いにうぐいす団地の交差点、せんざん、ピカソの前を通り、安養寺前交差点にでました。
交差点を越えたところに、真言宗の東宮山無量院安養寺があります。鎌倉時代の創建と聞きます。当時は大伽藍を擁していましたが、室町時代の大永元年(1521年)火災にあい、翌年再建されましたが関東大震災で倒壊し、その後、草ぶきのお堂が建てられました。
![]() 安養寺 |
![]() 安養寺の魔尼車 |
現在の立派なお堂は昭和五十三年(1978年)に再建されたものです。この付近の変貌を知っているのは境内の大銀杏だけかも知れません。
港南台が開発される前、お寺の裏は山でした。この山裾にはやぐら(鎌倉時代の墓)が二つありましたが何の調査もされず開発によって破壊されました。
お寺の裏の四ッ切共同墓地の外側には港南台の開発に伴い、周辺から集められた石仏や供養塔が祀られています。最も古いのは寛文十二年(1672年)の念仏供養塔があります。他に庚申塔が5基、馬頭観音塔が1基、常夜灯が1基あります。
![]() 安養寺裏から四ッ切公園に向かう参加者 |
![]() 庚申塔 延宝八年(1680) |
常夜灯には奉納石尊大権現大天狗小天狗と刻まれています。建てられたのは元治元年(1864年)です。大山阿夫利神社に雨乞いに行った帰りの夜道を迷わないように建てたのです。港南台が開発される前には小坪の山の頂(現金井町内会付近)にあった灯籠です。他の庚申塔や道標はどこにあったのでしょうか?そして、ここに住んでいた先輩方がどのような思いでこの石塔を建てたのでしょうか?
庚申塔 元禄5年(1692) |
![]() 常夜塔(道標)元治元年(1864年) |
この日野地域(以前は鎌倉街道の吉原から港南台インターまでが日野町でした)にも多くの庚申塔を見ることができます。これは道教の思想が奈良時代の日本に伝わった後、日本固有の信仰と結びついて発展したそうです。
この信仰によると人の体の中には三尸(さんし)という虫がいて、60日ごとに巡ってくる庚申(かのえさる)の日に人が寝静まった夜に、その虫が体内から出てきて天帝にその人の悪行を報告しますと天帝は怒ってその人を早死にさせてしまうのです。ですから、庚申の日には夜通し起きていて、この三尸の虫を体内から抜け出さないようにします。これを「庚申待(守庚申)」といいます。この時に一緒に庚申待を過ごす人たちの集まりを「庚申講」と言います。時代が下がり平安時代になると「60日に一度の楽しい夜通しの宴会の日」となってしまい、娯楽の乏しかった時代、全国的に一気に広がったようです。
この共同墓地の傍の大きな団地はちどり団地です。この団地を抜けると真正面にすばらしい富士山が見られます。港南台からの富士山は色々なところで見られますが、ここも是非、足を運んで頂きたい場所です。
![]() ちどり団地入口 |
![]() ちどり団地からの富士山 |
ちどり団地を抜けますとJRの線路を越える橋は錨橋です。昔この付近には鉄の加工所があり、船の錨を作っていたといわれています。
![]() ちどり団地付近に残る長屋門 |
![]() 錨橋 |
錨橋を渡ると、かもめ団地です。隣はつぐみ団地です。港南台のちどり団地、かもめ団地、めじろ団地と丘陵地帯はすべてが縄文時代、弥生時代の遺跡群の上に建てられたのです。
ここから港南台一中、港南台一小下の道を通ると、港南台第一小学校前とめじろ団地前の間の道路に出ます。そこの変則的な横断歩道を渡りますと左側が港南台南公園です。ここで小休止しです。この時、参加者から弁当を購入して山で食べようとの提案がありました。全員一致で公園横のプロムナードを通り、スーパーたまやでお弁当を仕入れて、日野峯入口から峯の尾根道を通り、海上保安庁の通信事務所の前に向かいました。そこからは富士山を中心に右に丹沢山塊、左に箱根から伊豆半島まで望めます。そこで、お弁当を広げて昼食です。
![]() 港南台南公園 |
![]() 臼杵(榎戸第一遺跡)から出土 |
![]() 円海山尾根の海上保安庁通信事務所からの富士山 |
![]() おいしそうに昼食をとる参加者 |
昼食後は錦開発の右横の道を下り、東京湾が一望できる場所まで行きました。遠くは東京タワー、そしてうみボタルから新横のプリンスホテルまでの大パノラマを見ることが出来ました。
元の道に戻り、いっしんどう広場から尾根道を少し歩きますと大丸広場への分岐点A3に出ます。その急坂をおりますと大丸広場です。ここで一休みして、更に下りますと漆窪休憩所の看板にでます。そこから杉林を抜けますと池ノ上休憩所です。瀬上池沿いに池の下広場に向かいます。
![]() 中継所傍からの横浜中心部を眺める |
![]() 瀬上池上のもみじ |
瀬上池は数十年前と比べて、流入する土砂で半分ほどまで埋まっていました。池の下広場からのどかな瀬上沢小川アメニティを下り、栄高校下に出ます。
![]() 瀬上川アニメティロードを歩く参加者 |
![]() 猿田遺跡と深田遺跡の説明板 |
![]() 瀬上川の岩壁の貝の化石調査中の場所 |
この付近は7世紀半ばから9世紀前半までの200年間「たたら」といわれる溶鉱炉がありました。これを深田製鉄遺跡とよばれています。また、栄高校のところには縄文から奈良時代までの住居跡がありました。縄文時代はここらまで海岸線があり、出土品の中には漁具があるそうです。
そこから東急の開発予定地の対面する堰の岩壁に154万年前はこの付近が海であった証拠の貝殻を見ることができます。このような地層は日野の新橋、藤が沢、七曲でも見る事が出来るそうです。
![]() 瀬上川の岩壁の貝の化石調査中の掲示 |
![]() 山手学園横の登り階段 |
そこから、舞岡上郷線にでて、左側に上郷フィールドアスレチック内の深田やぐらがどのようなものか想像しながら港南台方面に向かいますと途中、左に曲がる農道に入り、急坂を登ると山手学園の校門前に出ます。校門横の階段を登り、フォレストヒルズ港南台横の公園を通って若竹町に出ますと立野高校(旧港南台高校)の裏山に突き当たります。この山のすそ野に横穴古墳が8基あったそうですが、道路から見えるのは2基だけです。入口は50cmほどの小さい穴で、内部には古墳と知らずに塵芥を捨てる人がいるようです。港南歴史協議会の馬場さんの調査によると全体の奥行きは4m以上、幅も最大2m近くあるとのことです。
![]() 松ヶ崎横穴古墳群の一つ(旧港南台高校裏) |
![]() 相武国境 |
次は元大橋公園の相武国境碑を見学しました。今回の散策はこれで終了です。参加者それぞれが感じたことをかみしめながら港南台駅へと戻りました。
港南台は数千年前から人が住んでいた場所にまた、我々も住んでおり、住みやすい場所は時代を経ても同じなのかもしれないと思いました。我々はこの地の歴史を知り、今後も大切にしていきたいとう気持ちに駆られました。
今回のレポートをお読みいただいた方の中で、是非、我々の港南区の街を一緒に勉強されたい方がおられましたら、是非ご一緒に活動したいと思います。
そして、下記メールにご連絡いただければ幸甚です。メールを頂いた方の中から、抽選で10名様に手造りの無患子(むくろじ)の根付1ヶを差し上げます。
(但し、知ろう会既会員の方はご遠慮ください)
横浜をもっと知ろう会世話人 : 小林 伸 E-mail : hiromu@c3-net.ne.jp





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